服飾手芸用品の専門商社の日本紐釦(チューコー)は大阪・船場にあります。
この船場という地域ですが、実はかなり多くの問屋・卸会社が古くからあるんです!
「船場」というまちは歴史上の有名な人物「豊臣秀吉」による大規模な都市計画の中で誕生し、その後衰退と繁栄を繰り返しながら大阪の経済や文化の中心部分を担ってきたとされます。
そんな歴史と伝統が今もなお残る「船場」のまちと日本紐釦(チューコー)についてご紹介いたします♪

船場の場所について

船場の場所

「船場」と呼ばれるこの場所は、北は土佐堀川、東は東横堀川、南は旧長堀川(現長堀通)、西は旧西横堀川(現阪神高速道路)に囲まれた南北2.1km、東西1.1kmの区域のことをいいます。

「船場」というまちは、港から大阪城へと向かうこの東西の「通り」を軸とし発展、ここに南北の「筋」が交わることで、格子状のようにつくられているのが特徴的です。
そして、現在もこのまち割りは残っています。

東西に抜ける道を“通り”南北に抜ける道を“筋”と呼び 通りは広く、筋は狭い。

このように言われているのには理由があります。

まず気候的な要因として、大阪湾から吹く風を多く受け入れ、涼しく過ごせるように通りを広くしたということ。
次に城下町である船場は真東にある大阪城に通じるようにと通りを作り、船で荷物を運ぶ際の横堀川が船着場であったため本通りとなり、これに面してお店を構えるようになったことで筋は脇道になったとされています。

船場にある23の「通り」

この船場の通りの名称は地形や川、橋を由来とするものから船場とゆかりのある開発者の名前や出身地にちなむものなどあります。
この通りの名称は江戸時代から続くものがほとんどであり、また多くが町名としても用いられています。
これらのことから船場の人々はこの町名にもかなりの愛着を持っており、それは現代にも続いているともいえます。

船場の27の「筋」

船場の筋の名称は南北の川に架かる橋や沿道の社寺、職業や商い(商売)に関係するものが多いです。
また、筋は脇道のため町名として存在はしていません。
昔の古地図には、その当時言い伝えられていた名称が残っていますが、現在の地図では表記されることは少なくなりつつあります。
しかしその一方で、筋に立つ古い電柱や船場センタービルの壁には当時の呼称が記し残されていることから、船場の人々は筋の名称に愛着があるように思えます。

現在まで続く長い歴史の「船場」のまち

「船場」は豊臣秀吉による大阪城築城に合わせて誕生した埋め立て地です。
歴史上、大坂夏の陣、明治維新、太平洋戦争と何度も壊滅的被害を受けますが、その度に古くからの伝統的な側面を残しながらも時代に沿った新たな魅力ある船場のまちとして創りだしてきました。

古くから続く商いの街「船場」

江戸幕府直轄地後、全国各地から「人」「富」「情報」が集結するようになると大坂は経済都市へと変化しました。
特に船場は「金融」「薬」「繊維」「輸入雑貨」などの多くの問屋が集結し繁栄したとされています。

その後明治維新により、大阪の経済基盤は壊滅的ともいえるほどの大打撃を受けますが、工業都市として発展、また大正期に「大大阪」と呼ばれる時代を迎えると、モダンかつ新しい都市文化スタイルを創造していきました。

このように明治以降から現在にかけては堺筋や御堂筋の整備が行われたこともあり、人々の流れというのは南北の「筋」が中心となり変化していきます。
通りや筋の沿道には、現在も数多くの近代建築をはじめとする歴史的な建造物が残っており、「船場」の街並みの変化を垣間見ることが出来ます。

船場のまちからみる「日本紐釦(チューコー)」

日本紐釦(チューコー)の由来とはじまりはチャイナボタン!?

昔の日本紐釦(チューコー)のお店の様子

「紐釦(チューコー)」とは、中国語で釦(ボタン)を意味します。
現在みなさんにも馴染みのある貝やプラスチック製のボタンが誕生する以前は、文字の通り紐を結んで作ったものを釦(ボタン)として使用したのが釦の始まりでした。
現在も残っている「チャイナボタン」は、まさにルーツだったともいわれています。

実は、創業当時の1917年(大正6年)は釦だけを販売していた釦専業卸問屋でした。そのため釦専業卸問屋だった我社は「日本紐釦貿易」と名付けたそうです。

戦前は貝釦のみを販売しておりましたが、戦後すぐに和裁洋裁付属品、さらに手芸用品クラフト材料と次第に商品の種類が拡大して現在に至ります。

このようにお取り扱いする商品の種類が増えてきたのも、お使いいただくエンドユーザーの皆様に「生活が楽しく、より豊かに個性あふれるものになる」という目標があるからです。

日本紐釦(チューコー) のある「南久宝寺町通」の今と昔。

2022年現在の南久宝寺町通
2022年現在の南久宝寺町通

そして、そんな日本紐釦(チューコー)のある「南久宝寺町通」は江戸時代から唐弓・唐槌の商店、合羽・塗物問屋、その中でも特に小間物問屋が集結していたといわれています。

「小間物」 とは

現在でいう櫛やかんざしなどの髪飾りや化粧品、塗りの器や箱、刃物、眼鏡、根付といった日用品や装飾品といった現在でいうファッショングッズのようなもの

また日本紐釦(チューコー)の最寄り駅でもある「堺筋本町」と「長堀橋」。こちらの最寄駅から歩くと「堺筋」という道路を歩いてお越しになられるかと思います。
ちなみにこの「堺筋」といわれている理由としては、堺へと抜ける道でもあったからです。
1912年以降(大正から昭和戦前頃まで)、市電堺筋線が設置されると様々な商業施設や金融機関が並ぶ、大大阪時代を象徴するメインストリートになりました。
かつては高島屋や白木屋などの有名な百貨店が多く立ち並んでおり、現在の御堂筋のような大変賑わいのある道路だったそうです。


1989年頃の日本紐釦(チューコー)の様子
1989年頃の日本紐釦(チューコー)の様子

30数年以上前の時代、南久宝寺から松屋町までは200件以上もの卸問屋が立ち並ぶ「南久宝寺卸問屋街」としての歴史を持っており、その中で手芸問屋、釦専門店は20件近く並んでいたそうです。

その当時、他社よりも先に商品を仕入れるために卸問屋同士で競い合っていたんだそうです。

しかし今ではその手芸問屋の数も少なくなりました。
こうして当時のことを知ると、少し寂しい気もしますね。


1989年頃の日本紐釦(チューコー)の様子
1989年頃の日本紐釦(チューコー)の様子

約30年以上前の日本紐釦の写真をご覧いただくとお分かりいただけるかと思いますが、昔はギリギリまでワゴンが出ていました!
実際の写真を見るとさらに興味深いですね。

また紅白カラーの暖簾は、その当時「南久宝寺卸問屋街」 にて毎月開催されていた売り出し期間中に加盟していた卸問屋さんで飾られていたそうです。

当時の売り出しの時に着用していた法被
当時の売り出しの時に着用していた法被

売り出しの際にスタッフが着用していた法被は今も残っています。
その当時をご存知の方々にお話をお伺いすると、大変賑わっていたそうです!

戦後の復興を支えてきた船場のまちも、1970年代以降繊維の不況や産業構造が変化したことにより、今までの賑わいは低迷していきます。
現在は、日中には約20万人もの人々が集中する業務都心として機能していることに変わりはありませんが、商業・業務機能自体はキタやミナミへと変わりつつある中で、新しい魅力のある船場というまちが生まれつつあるのも事実です。

日本紐釦(チューコー)は創業してから100年以上経ちますが、現在も船場のまちで手芸用品をお取り扱いしている専門卸問屋としてお客様と長きに渡りお取引させていただいております。
これからもお客様のニーズやトレンドといった流行をいち早くキャッチし、お客様のもとへ商品をお届けしていきます!!

「懐かしいお裁縫道具も見つかるかも?」お裁縫の文化についてご紹介しております♪

堺筋本町駅から日本紐釦(チューコー)への行き方

長堀橋駅から日本紐釦(チューコー)への行き方

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